受験生の御用達参考書にして、大人の女性の恋愛指南書『あさきゆめみし(大和和紀)
かの古典「源氏物語」を少女漫画界の大御所大和和紀が漫画に書き起こした名作「あさきゆめみし」、学生時代古文へのとっかかりにと読んだ人も多いと思われます。オリジナルの雅な世界を豪華絢爛な絵で美しく再現し、その完成度たるや恐ろしいもので、難解な古典を誰にでもわかりやすく漫画として成立させ、かといってその格調高さは全く損なわれていない。艶やかに描かれた十二単衣を見るだけでため息が出てしまう少女漫画です。
もちろん古典が読みやすくなったというだけではありません。この「あさきゆめみし」こそは、女として生まれてきた人生をどのように生きるかを学ぶのに実に適した作品でもあるのです。まだ未見の人はもちろん、少女時代に読んだだけという人もぜひ一度読み返してみて。大人になった今だからこそわかる切ない女心が溢れんばかりに描かれているから。
源氏の君と彼を愛した女性たち
源氏物語とは、その名の通り源氏という名の男と数々の女性たちとの恋愛遍歴をつづった物語。主人公光源氏の君とは、当代一の色男、スーパー美男子で、何をやらせても完璧、女性には徹底してフェミニストの究極のモテ男。世が世なら、浮気男・最低男の烙印を押されている、とんでもない不誠実男でもあります。序盤は、そんな光源氏の君がなぜかように女性を求めるかの理由が丁寧に描かれています。
源氏の父である時の帝は桐壺という女性と劇的な恋に落ちて、源氏の君が生まれます。その後桐壺は亡くなり、悲しんだ帝は桐壺にそっくりな女性である藤壺を新たに妻に迎え、母を知らずに育った源氏は、この義理の母親の藤壺を慕うようになり、思春期に突入すると母親以上の愛情を持ってしまうのです。つまり、父親の妻であり継母を愛してしまったという禁断の恋に悩み、しかし手を出すわけにはいかず、ずっとその影を追い続けるかのようにいろんな女性を渡り歩いていくのです。
絶対無二の本命がいるんだけど、しょうがなく他の女に手を出してしまう。でも(気持ちは)本命に一途なので、これは裏切りにはならない。手を出された女側にしてみればふざけんなって話ではあるが、少女漫画ではしばしばみられる光景であり、本命好きな人にとってはたまらない設定です。しかも本命(藤壺)への徹底した恋心が、これまた女心を刺激するような描き方なので浮気者だけど彼の場合はしょうがないよね…と本来女の敵である源氏を認めざるを得ない。
更に手を出した女はちゃんと生涯面倒をみているし、全員にちゃんと愛情も持っている。「俺はモテるから」といった鼻持ちならないところがなくて、どんな女性にも優しく本気で接してくれる。正直こんだけ包容力があったら2番目でも3番目でも全然アリだと思わされてしまうそれが源氏の恐ろしいところなのです。
男の愛情だけを頼りに生きるということ
「あさきゆめみし」には現代でも全く違和感がない恋心が紡がれています。
本作では、多種多様なタイプの女性が出てきますが、それぞれに大変な魅力を持った女性達です。
トップクラスに源氏の一の人(事実上の正妻)である紫の上や継母で初恋の藤壺といった知性も美貌も家柄も兼ね備えた女性に始まり、ツンデレタイプの葵の上、嫋やかで優しい夕顔、誇り高き美女朧月夜、芯の強さを持った玉鬘、気立てのよい花散里と、普通女性の好みは似たようなタイプになるものを実に多岐に渡っている、天性の女好きと言われる所以でしょう。基本的に心の底から嫌な女は出てきません。嫉妬で生霊を飛ばし他の女を憑き殺す女として描かれている六条御息所がいますが、夫に先立たれプライドだけで生きてきた女性が8歳も年下の源氏との本気の恋に苦しんだ上の嫉妬であり、哀れとこそ思えど、同じ女として誰が彼女を責められようか。
そして、源氏に誰よりも愛されたとされる紫の上も、六条御息所と同じ結局は最後まで女の業から抜け出ることは叶わない。完璧な女性像とされた彼女でさえ、どこにでもある女の不安、嫉妬から逃れることはできなかったのです。
紫の上は、知られている通り、源氏に理想通りの女として育てられ、そのまま妻とされた女性です。
源氏が本命の藤壺を忘れられずに苦悩していた若かりし頃、藤壺の親戚にあたるまだ幼い紫の上と出会い、幼い顔に藤壺の面影を発見した源氏は、彼女に教養と芸事を教え見た目も整えさせ何年もかけて自分好みの女性に育てあげていく。しかもその間は優しいお兄様として洗脳済み。そうしてすっかり油断しきった紫の上を、或る晩、名実ともに自分のものとしてしまう。直後は裏切られたと嘆くものの、聡明で強い彼女は自分の運命を受け入れ、一生源氏の傍にいることになります。
そうして源氏が他の女とは別格で惚れ込み、品格もあり人柄も良く、見た目も天女のように美しいという紫の上。
しかし、彼女は生前、義理の娘にこんなことを言います。(この娘は、別の女性が生んだ源氏の子)
「あなたはわたしのように殿方の愛情だけを頼りに生きてはだめ。」
源氏の子どもを欲しくてたまらなかったのに恵まれず、他に頼るモノもなく、彼女には本当に源氏だけだった。彼が一番に愛してくれることが、彼女の誇りであり、唯一の生きる糧だった。彼の愛だけを頼りに2人で年を取って生きていけると思ったのに、源氏は中年になっても今だ本命の藤壺を忘れられず、藤壺の縁者に当たる若い嫁(女三宮)をもらってしまう。そう、結局源氏は藤壺を追い続けていて、いつしか勘のいい紫の上は自分が誰かの形代であることを気づいてしまう。ただ、それを責めることは決してありませんでした。彼女は人知れず深く傷つき、失意のうちに亡くなってしまう。そして、彼女が死んだ後で、ようやく源氏は紫の上こそが生涯で最も愛した女性だと気づくのです。<目も当てられないアホ
女は男に頼らなければ生きてはいけない時代、これは1000年も前の平安時代の話ではありません、ほんの40-50年程前、自分らの親の世代までは同じような価値観だったのです、日本は。それを考えると、たとえ男に振られても仕事があるさ、友達がいるさ、趣味があるさと言える今のこの時代のなんと自由なことよ。
この紫の上の台詞は、全ての世代の女性の心に訴えかけてきます。当代一とされた女性でさえ、嫉妬に苦しみ、男の愛情を最後まで信じきれなかった。一夫多妻が当たり前とされた平安時代だけど、なんのことはない、やっぱり女は女なのです。
話は少しずれますが、では平安時代の男はどうなのかというと。女大好きの源氏は別格として…源氏の息子で夕霧という青年の話があります。これが源氏とは正反対の誠実な真面目くん。彼の恋のお相手は、幼馴染の雲居の雁という女の子。小さい頃から一緒に育った二人は、小さな恋のメロディのごとく、ほほえましい初恋をします。しかし、相手の父親から反対をされ一切彼女に近づけなくなるのですが、青春期も夕霧は他の女に見向きもせず、学問を成し遂げて彼女を迎えに行く、まさに少女漫画を地で行くキュンキュンカップル。あちらこちらの女性に手をつける父親へのあてつけかのように、彼はこの幼い恋心を成就させて、初恋同士の結婚を成し遂げるのです。
しかし、しかし!そんなに想いあって結婚したのに、子供が生まれすっかり所帯くさくなった妻を見て、夕霧はあっさり別の女にちょっかいを出してしまう。しかも相手の女性が、死んだ親友の忘れ形見(美人)というドラマチックなシチュエーションで、「彼女には俺しか頼るモノがいないんだ!」と勘違いしてしまう、まさに浮気のド定番の展開。夕霧の株が大暴落した瞬間です。お前の魅力は一途で不器用なところじゃなかったのかよ。1000年前でも、やっぱり男は男なんだ。ということが分かるエピソードです。
大人の女性にこそ読んで欲しい、「あさきゆめみし」こそは女の人生の指南書です。
源氏に関わった女性たちは早くに出家をしている人が多い。先に書いた紫の上もずっと出家を望んでいます。源氏の一の人といっても正式な正妻の身分も最後まで与えられず、子供にもめぐまれず、源氏の愛情だけしかなかった彼女は、愛が失せる前に出家してしまたいと願うようになります。しかし源氏が「いやだいやだそれだけはいやだ」と駄々をこねるので、優しい彼女は死ぬ最後まで源氏を見捨てることはできなかった。
相手の愛がなくなる。それは女にとって最も恐ろしいこと。男女の恋愛から逃げ出したい、このつらさから解放されたい、愛されているのに信じられない。恋に疲れた女性が自分の意志で決められる唯一の明るい道筋、当時はそれが出家だったのです。
愛に苦しみながらも真摯に向き合って生きてきた、女性たちの人生。フィクションではありますが、前世代の女性たちの生き方を励みに今この時代を生きていきたいものです。
※注:漫画「あさきゆめみし」に対するレビューです。オリジナルの源氏物語の内容とは違う点もあります。